About SHIMASATOMI
祖父との夏
幼少の頃は、スケッチブックと鉛筆さえ持たせていれば全く手のが掛からない子供だったそうです。自然が好きな祖父の影響で、夏中ずっと祖父の別荘へ連れて行ってもらい、森を駆け回って過ごしました。
その日みつけた草花や、祖父が撮り溜めた動物のドキュメンタリービデオを見ては想像を膨らませて、動物の絵を描いて過ごしていました。当時のイチオシは”馬”で、動物園に行っては何度も引き馬に乗せてもらい、観察しました。
日本舞踊
母は日本舞踊の師範でしたが、習いはしたものの才能が無く、続きませんでした。一方で、 簪や着物のデザイン、和の色合いに魅了され、日本の伝統文化に興味を持つきっかけになりました。この経験は、今の色彩感覚に少なからず影響していると思います。
日本画
中学3年になる頃には、既に美術大学に行きたいと思っていました。専攻は日本文化が好きだったこともあり、日本画を学びたい!と決めていました。日本画の繊細で美しい描き方に憧れていました。
進学は地元の東京を考えていましたが、ふと、京都へ行くことを意識し始めます。
「伝統文化溢れる京都に暮らしながら日本画を学べたら素敵だなぁ。古美術、寺社、町屋や路地。和に囲まれた環境で学べたら、どんなに素晴らしいだろう」
京都への進学は、両親に大反対されました。数日間に渡り、抗議のボイコットを決行。両親が折れ、京都へ。 大学進学直後は、描きたいものを自由に描いていました。元より好きだったミュシャのデザイン的な画風をよく参考にしていました。ミュシャの作風といえば私はアウトラインの強調だと思っていますので、この頃より、"線"の描き方を意識する様になりました。
線
あるとき、鳥獣戯画の課題模写を通して、古典絵画に興味が湧きました。
線の描き方を強く意識し始めていた私は、日本の古典絵画にも"線"の表現があることに気付きました。
日本の古典絵画において、線の役割は特徴の一つです。
そして自分の画風においても、次第に、アウトラインをいかに美しく描くか、にこだわりはじめました。 古典絵画の学びを深めたいと思い、専門課程は模写を選択しました。描画技術だけでなく、画材や道具への見識も深めていきました。従事していた先生に絵画修復現場へ連れて行って頂いたり、また南宋絵画を学ぶ機会にも恵まれました。
模写をする中で私にとって1番難しかったのが、作者の渾身の筆跡である"線"を再現することであり、また1番楽しくもありました。
河鍋暁斎
模写を学ぶ中で、河鍋暁斎の作品に出逢いました。
『幼少の頃、見つけた生首を写生のために持ち帰り隠し持つが、結局両親に見つかった。元の場所に戻す前にこっそりと写生をした』などのエピソードがある作家です。ただ描く対象として観察したかった、という画家としての純粋な気持ちや姿勢に、とても惹かれました。
『髑髏と蜥蜴』『地獄太夫と一休』が特に好きで、この2作品の模写を通して感性が養われたように思います。
・髑髏と蜥蜴
蜥蜴の細密な描写に魅了されました。蜥蜴の鱗が、流れるような体のラインに沿って一枚一枚丁寧に描かれており、蜥蜴がチョロチョロと這いまわる生々しさを感じます。
・地獄太夫と一休
色彩感覚のセンスに一目惚れしました。この作品は、赤・青・緑・黄・金と、あらゆる色を使用していながら綺麗にまとまっています。また、太夫の後ろでは一休と髑髏が踊っており、禍々しさの中にあるコミカルな表現がとても彼らしい作品です。
卒業制作としてこの作品を描きました。制作期間はじっくりと一年をかけて描きあげ、奨励賞に選ばれました。
いつしか絵は遠くに
在学中は、京都の老舗和傘工房でのインターンシップも経験。約半年と、当時としては長期のインターンシップでした。 傘の柄のデザインをさせてもらい、商品化もしてもらえました。
最も貴重な体験は、某有名アパレルデザイナーのパリコレクション作品の制作に従事できたこと。和傘の構造を取り入れたドレスの制作で、デザイン画を制作図面に変換する作業で参画しました。最終的に、メンバーの一人としてパリコレに随伴させてもらう事もできました。自分を含めたくさんの人の手が加わって、最後に形になったものを見た時は、心の底から感動しました。
学卒後、就職することに。神社への奉職(巫女)、芸術大学職員と、日本文化に深く関わる仕事に着けはしましたが、働くことに追われて、正直なところ絵を描く余裕は皆無となりました。一方で、様々な人たちと働くことで人間として豊かになることができました。
しかし、やはり絵を描くというのはまとまった時間が必要です。少しづつ、ただ確実に、絵を描きたいという想いは募っていました。
ブランク
転機が訪れたのは仕事を辞めた後。
人生の中休みとして、半年程の「働かない時間」を設けました。
久々にまともに筆を取れましたが、困ったことに何を描いたら良いか分からなくなってしまっていました。暁斎を真似て、無理矢理に髑髏などを描いてみたものの、何かが違う。描きたい気持ちはあるのに、描きたいものがまとまらない。自身の中にできた歪なプライドも邪魔をしていました。『美術大学で学び、仕事でも好きな分野からなんとか逸れずに来た。人としても成長したはずだから、すごい物が描けないといけない!』なぜかそう思い込んでいました。デッサン力も相当に落ちていました。
そんなおり、パートナーと2週間ほどフランス旅行に行ってみることになりました。到着したフランスはストライキの真っ最中で、交通機関は機能していませんでした。知恵を巡らし、予定していた陸路の替えに、現地で飛行機を手配してなんとか目的地に辿り着いたり、既に入場待ちの長蛇の列ができていた中でルーヴル美術館が当日ストとなり、返金不可のチケットを事前購入していたものの早々にルーヴルは諦め、ホットワインを引っ掛けて街中の画材屋巡りに切り替えるなど、意外なほど充実した時間を過ごしました。
(The Grande Galerie de l'Évolution)
その他にもトラブルだらけの2週間でしたが、それを乗り越えて過ごす旅の毎日の中でふと、『世界はとても広くて、それに比べたら自分の悩みなんてとてもちっぽけだし、つまらないものだな』と思いました。何も知らない海外で、次から次へと起こるトラブルを乗り越えて楽しく過ごしたという自信が、絵を描くという自分だけの世界にこびり付いていた何かを洗い流しました。
描ける喜び
帰国後、ふと実家の猫をデッサンしてみました。
そのうちに、『周りに花を描いたらどうだろう、ここはこんな色にして、もし飾るならこんな額を…』と想像が膨らんできて、とても久々に『絵を描く』ことをしました。
何かが弾けたように、幼い頃のように動物のドキュメンタリーを見たり、動物園で調べ物をしたりして、好きな動物をたくさん落書きしました。とても楽しくて、絵を描く喜びを思い出しました。
段々と描きたいものが浮かぶ様になり、作品づくりをはじめました。学生時代を振り返り、"線"を美しく見せることへのこだわりも大事にしながら、今では動物・植物、鳥類にもスポットをあて、自分が描きたいものをそのまま描いています。作品が増えるに従い、構図や配色など学んできたことを活かし、どこか日本画的表現や、古いものを感じさせる作品にすることを、自然と心掛ける様になりました。
SHIMASATOMIという作家
描くことは自分との戦いの様に思います。完成したらしたなりに、次はもっとこうしたい、こうすればよかったという歯がゆさも生まれます。
飽くなきこだわりとの戦いとも言えますが、それこそが、作品を"自分らしい、自分だけの"作品とするのだと信じて、向き合っています。
私はこれからも、古の絵師や作品達に敬意を抱きつつ、いつか、『あ、これはSHIMASATOMIの作品だ!』と思ってもらえるような作品を描いていきたいです。
主な実績
2022年 第29回全国サムホール公募展 奨励賞
2023年コピックアワード2023準グランプリ受賞
2023年〜デザイン着物メーカーへの帯図案提供(2023〜)
展示歴
coming soon...